ジャッキー佐藤の晩年とマキ上田への最後の言葉、ビューティ・ペアの解散の裏側

1970年代、女子プロレス界に旋風を巻き起こした「ビューティ・ペア」。その名は、華やかなプロレスの試合とアイドルのような歌手活動で、多くのファンの心に刻まれました。しかし、その華やかな舞台の裏では、葛藤やすれ違いが存在していたのです。今回は、ビューティ・ペアの解散の理由、ジャッキー佐藤の晩年、そして彼女がマキ上田に残した最後の言葉についてお届けします。

目次

ビューティ・ペアの誕生と成功への道

ビューティ・ペアとして知られるジャッキー佐藤とマキ上田の出会いは、全日本女子プロレスでのことでした。1975年、ジャッキー佐藤はマキ上田との試合でプロレスデビューを果たし、翌年には二人で「ビューティ・ペア」を結成。彼女たちはリングだけでなく、歌手としても活動を始め、そのデビュー曲「駆け巡る青春」は80万枚の大ヒットを記録しました。

ビューティ・ペアの成功は、単に試合に留まらず、彼女たちはプロレス界初のアイドル的存在となりました。試合前にリングで歌を披露するスタイルが若い女性たちに支持され、女子中高生を中心としたファン層が急増。これにより、それまで中年男性が中心だったプロレスの客層に新たな風を吹き込み、ビューティ・ペアは一躍スターとなりました。

解散の理由と二人のすれ違い

しかし、その成功の裏では、二人の間にすれ違いがありました。ジャッキー佐藤は一匹狼のような気質を持ち、社交的で人懐っこいマキ上田とは対照的でした。彼女たちはプライベートでの交流がほとんどなく、試合後に会話を交わすことも少なかったといいます。

1979年、ビューティ・ペアの解散が決まりました。その背景には、マキ上田がタッグとしての活動に限界を感じ、社長に直談判したことがありました。結果、二人の間でシングルマッチを行い、負けた方が引退するという条件が設定されました。この試合で敗北したのはマキ上田であり、彼女は引退を決意。それと同時にビューティ・ペアも解散することになったのです。

ジャッキー佐藤にとって、突然の引退をかけた試合の設定は驚きであり、試合当日も「なぜ引退をかける必要があるのか」と困惑していたと言われています。しかし、この試合をもって二人は別々の道を歩むことになりました。

引退後の二人の人生

マキ上田は引退後、一度芸能界で活動したものの、その後は地元鳥取県でスナックを経営するようになりました。そして48歳の時に、11歳年上の男性と結婚します。結婚相手はマキ上田の大ファンで、頻繁に彼女の店に通い詰めた末に交際が始まり、結婚に至りました。現在、マキ上田は浅草で釜飯屋を夫とともに営んでおり、穏やかな生活を送っています。

一方、ジャッキー佐藤は1981年に一度引退しましたが、1986年に再びプロレスに復帰します。しかし、その復帰後の道は順風満帆ではありませんでした。彼女は神取忍との「セメントマッチ」に敗北し、それをきっかけに1988年に再び引退。この試合は、台本を無視した本気の格闘戦であり、その激しさはプロレスファンの記憶に深く刻まれています。

ジャッキー佐藤の晩年とマキ上田への最後の言葉

引退後、ジャッキー佐藤は体操教室を運営する会社「ジャムナ」を設立し、スポーツプログラマーやヘルスケアトレーナーとして活動を続けました。しかし、1988年に胃がんが見つかり、1999年8月9日に彼女は静かに息を引き取りました。彼女は生涯独身で、最期は後輩である南組に見取られながら亡くなりました。

特筆すべきは、ジャッキー佐藤がマキ上田には自分の病気のことを最後まで伝えなかったことです。彼女が亡くなる直前に、マキ上田の店の10周年パーティに参加しており、それが二人の最後の再会となりました。その際、ジャッキー佐藤は「また一緒に遊びに行こう」と手紙を残し、再会を楽しみにしていたことを伝えています。この手紙がマキ上田にとって最後のメッセージとなり、彼女は「いつまでもライバルとして見てくれたことが嬉しかった」と語りました。

結論

ビューティ・ペアとしての栄光の日々、そしてそれぞれが歩んだ異なる人生。ジャッキー佐藤とマキ上田は、プロレスの舞台で多くの人に希望と夢を与えました。しかし、華やかな成功の裏には多くの困難と葛藤があり、それでも前に進もうとした彼女たちの姿は今も多くの人々にインスピレーションを与え続けています。

ジャッキー佐藤が残した最後の言葉は、彼女が生涯抱えていたプロレスへの愛、そして仲間でありライバルでもあったマキ上田への特別な感情を象徴しているように感じます。二人の道は別れましたが、その絆は時を超えて多くの人の心に残り続けることでしょう。

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